1898年以降の極東に於けるスペイン

スペイン及びポルトガルに於ける日本研究:その外観

フランコと大日本帝国

フィリピンにおけるスペインコミュニティー

 

 

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 このページでは、東洋アジア、オセアニアの知識貢献を目指したいと思います。特に私が調査を行った領域、現代史における相互の接触、日本のようにスペインが支配しなかった領域、 又1898年以降のミクロネシア、フィリピン諸島領域を中心に作成しました。

又、他の機関への掲載物、統計の他には、教職のための資料、文献目録、関連テキスト、博士論文用の他の参考資料も集めてあります。

面会の約束、詩の掲載の他には、できるだけ旅行写真のような青年時代の物、詩等(多くはないですが)個人的な物、相互認識との関連物も載せようと考えています。

今のところは、熟考できず、再推敲もできず、又おそらく、あまり興味も持てそうにもないので筆の赴くままに航海日誌を書くつもりはありません。又、Boletín Casa Asiaのように最近の記事や、日々の新聞からの物、本からの抜粋等が目立ちますがこのページの構造の中心は、先に述べたテーマが中心です。

 

このページへのご訪問、どうも有難うございます。   フロレンティーノ・ロダオ

 

 

 

 このページには、近々昌文社に掲載される本の要約、国会図書館にある東京大学の博士論文要約、出版物同様日本語のページを含みます。

 

 

           

 

 

 

 

 

1898年以降の極東に於けるスペイン

[1898nen ikô no kyokutô ni okeru supein]

  Actas del Simposium "El Quinto Centenario y el Mundo Hispánico

pp. 121-126, en japonés, 34-39. Tokio, Academia Castilla,  s.f. [1992]

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スペイン及びポルトガルに於ける日本研究その外観

[Supein oyobi porutugaru ni okeru nihon kenkyu: sono gaikan: Sono Keikan]

–traducción por 立石博隆 (Hirotaka Tateishi), 事典外国人の見た日本. 富田仁Hitoshi Tomita), pp. 519-525. Tokio, Nichigai Associates, 1992

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フランコと大日本帝国

戦時のイメージ作戦と宣伝活動

Franco y el imperio japonés. Imágenes y propaganda en tiempos de guerra

Col. Asia Fue. La Historia rescatada

Barcelona, Plaza & Janés, 2002, 669 pp.

 

      

 

スペイン内戦、日中戦争、第二次世界大戦、太平洋戦争により、日本とスペインの関係は再活性化した。この動きは大きく、両国の接触のあり方のみならず、スペイン内政にまで影響を及ぼした。その背景には、フランコ体制を形成する派閥間の議論で、異なる”日本のイメージ”が利用されたからだ。

 

スペインと日本は、1937年7月、時を同じくして戦争に突入した(日中戦争、スペイン内戦)。これが主な要因となり、ドイツ、イタリア、日本の種々の差異、また一方で民主主義大国とソビエト連邦の格差が広まった。それに加え、スペインの共和国派や国民派、そして中国共産主義者、日本軍の間に、互いに同士、とみる動きが生じた(国民派と日本軍、共和国派と中国共産主義者)。スペイン国民派は、日本軍と同じように世界の共産主義を敵としていると感じていた。他方、スペイン共和国派の人々は、中国の立場と自分たちのそれを同一視した。つまり国際規範を侵害するような行為の被害にあっていること点、国際連盟という形に集約された思想を抱いていることなどだ。また一方で、日本国軍はスペイン内戦に早くから関心を示した、というのも戦争終盤でのソビエトの圧倒的攻撃(M80戦車、「モロトフのカクテル」(火炎瓶))について研究をしたかったからである。実際、当時の中国共産主義者たちは、常に政治戦略においてスペインの事例を参考にしていた。スペインの「ノ・パサラン」(奴らを通すな!)と同じようなスローガンを掲げたり、南京占領後に首都であったWuhan(武漢)を防衛するためマドリッドを手本とした。また、スペイン内戦後にはサンティアゴ・カリーリョやスペイン共産党員を招き、若い党員の育成を目指していた。

 

同時期に参戦していたことからスペイン国民派及び共和国派、中国、そして日本軍間に生まれた同士意識は、スペイン内戦の終結でいちどは失われた。だがヨーロッパで新たな戦争が勃発し、フランコ・スペインと軍国主義日本は再び利害の一致をみるようになった。当時、「新秩序」が模索されていたが、このために数年間にわたって争いが続いていた。これに対して両国は同じ内容の文章を作成した、「枢軸国側を支持するがヨーロッパの戦争には参加しない。」というものだ。この時のスペインと日本双方が望んでいたのはドイツの勝利だったのだが、できることは側面的支援に限られ、相手国側に入り込みスパイ行為や宣伝活動を行うこと程度であった。

 

とはいえスペインと日本は将来に向けて共通の目標「領土拡大」を狙っていた。そのため両国はドイツ軍勝利の知らせに注意を傾けていただけではなく、新秩序体制での自国の輝かしい姿を思い描いていた。こうした状況下、両国の友好関係の意義は変わっていき、当初の対ソビエト連邦戦から、自国の勢力圏拡大へと重要性は移った:スペインの狙いは北アフリカ、日本は東アジア地域であった。ドイツ台頭から自国の利潤を得るという期待が、ほとんどの両国外交関係や相手国認識の中心にあった。さらに都合のいいことに勢力拡大を狙う地域は重なっていなかった、唯一の例外はアメリカの植民地フィリピンだった。ここは日本が覇権をもつ土地だったがスペインはスペイン化することを狙っており、互いの野望は結局、覇権を共有するということに落ち着いた。この友好的結論の背後には、フィリピンである大国が失墜すれば両国にとって利益となるという考えがあった。その大国とはアメリカ合衆国であった。

 

しかし太平洋戦争開始とともに、フィリピンを舞台とした野望が相容れないものだとわかり始め、互いの協力意識が衝突へと姿を変えていった。その一方で日本は、交戦国日本には実行不可能な2つの重要事項に関し、中立の立場をとっていたスペインに支援要請をしている。それは以下の通り:アメリカ大陸一帯で日本国と日本人移住者の権利と安全を守ること、及びスパイ活動を行うこと。これによりスペインは、日本側への欧州最大の支援国となり、アメリカを始めとした北アメリカ大陸に「東」と呼ばれる秘密情報部員網を敷くに至った。が他方では、フィリピンでの覇権共有は間違いだったと知った。この問題はフランコ体制下の派閥同士で議論され、親日的であったセラーノ・スニョル党首率いるファランヘ党はこの問題を種に責められることとなった。日本との政治的友好関係は、期待が失われていくとともに割の合わないものとなっていき、スペイン内政にまで影響を及ぼすようになった。

 

友好国を支援する必要性と、フィリピンでその友好関係から得るものが少ないことによるスペイン内部での議論が起こる中、スペインは初めて連合国側の前で、枢軸側のある一国(日本)に対しての無関心さを示す発言をした。ドイツ軍が最大勢力を世界中に広げていた1942年夏、フランコ将軍はアメリカ合衆国大使の前で明言した:日本の勝利で何も得ていない、と。その後、セラーノ・スニョルが追われた後、新外務大臣ホルダナは、漸進的に進められていたスペイン中立の立場確認のため、対日関係に緊張が増していたことを利用した。つまり、フランコ政権が採り続けていた親ドイツ行動を帳消しにするために、悪化していた対日関係を「(中立性の)証拠」として用いたのだ。また、1943年夏に再びアメリカ合衆国大使に対して、フランコは世界大戦に関する発言をしたが、これはじつに雄弁だった。スペインが公明正大にドイツの対ソビエト戦を支援していることに言及、枢軸国側と西欧民主主義の戦いにおけるスペインの中立性を強調し、また、対日本戦に支援を行う決定を伝えた。この発言から、日本との衝突が増していたことを利用しようと体制側の考えが見てとれる。:ナチドイツへの加担の埋め合わせと、東アジアという裏ルートを通じてアメリカと密接になろうというものだった。

 

ついに日本は、フランコ政府の根本的かつ徹底的改革の対象となった。連合国側勝利が予想される中、そのあとの世界で生き残っていくために、過去の極端な日本寄りの姿勢を自省する記事をファランヘ系新聞「アリーバ」に掲載したり、また、1945年3月には、スペインは日本への宣戦布告を準備するまでになった。枢軸側勝利の期待は潰え、明治以降の日本のように繁栄と成功の道のりを歩む、という熱狂的ファランヘ派が描いていた夢は砕かれた。彼らは日本が国際社会で為し得たように、国際社会での高い地位の獲得、そしてまた国内においても権力掌握を狙っていたのだ。そして昔からの古い考えが残った:日本のような非西欧国がトップクラスの強国になるということは有り得ない、そして中・低層階級を中心とするファランヘ党が、常に上流階級が掌握していた国内権力を奪うことはできないのだ。

 

この政治的転換とイデオロギーの正当化から、戦争終結後に起こったように、一般的に見ても全く異なる文化をもつスペインと日本の関係が変化していくことが理解しやすくなるだろう。この変化、理想的な友好関係から激しい憎しみへ、また利益から無利益への転換は短期間の間に起こった。公式宣伝のおかげでスペインと日本は互いに評価しあう友好的関係を維持しているかのようであったが、実際は、政治面、経済面、商業面いずれにおいても強力な関係を結ぶには至らず、また、一種の嫌悪感と人種的反感を拭い切れずにいた。それは、戦争末期にスペインがとった突然の政治的転換にみてとれる。日本よりも軍事的に不利な状況にいるにも関わらず、ナチドイツやイタリアのファシストとの間には、こういった政治転換は起こらなかった。スペインは、地理的位置だけではなく文化的にも隔たりのある日本に対する政策を大きく変化させていった。1942年春から日本が初めの頃の勢いを失い始めてからは、日本が活躍しているときでさえも、マイナス面や社会文化的に日本人のステレオタイプ的な行動が見受けられると、以前から持っていた日本に対してのマイナスイメージが表面化するようになった。さらに後、アメリカへの接近に日本を使えることが可能となると、スペイン政府が日本に対して抱いていた過去のマイナスイメージが、政治方向転換にプラスに働いた。イメージ操作を行い日本のマイナス面をアピールするようにした。その後、公的緊張の高まりは対日イメージにネガティブな影響を与えた。対日イメージの転換が、政策的転換に先行したのだ。

 

 

1. この本の特徴

・スパイ活動 

スペインによる戦時下の日本への主な支援活動に、機密文書を入手し複数経路で送付することがあった。最大の成果としては、「東」と呼ばれる秘密情報部員網を敷設することで、この機関はアメリカ合衆国の種々の情報を入手した。「東」は必ずしも正確な情報を流していたわけではなかったが、合衆国の対スパイ機G-2に最も警戒されていた。

アメリカ側の日々の報告書にはMagicSummariesといわれた敵国日本に関する重要な通達文書や情報が添付されており、その警戒心を伺うことができる。1978年にこの報告書類が公開されたとき、「東」の存在や、スペイン外交官やスペイン外務省情報網が利用されたことなどが明らかになり、スペイン主要新聞「エル・パイス」のコラムやワシントンポストの第1面などの各メディアで大々的に報じられた。この本「フランコと日本帝国」はスペインを利用した日本のスパイ活動を初めて逐一明らかにするものである。執筆にあたり、1978年に公開されたMagic Summariesに加え、 アメリカ合衆国側スパイに傍受された全ての電報を調査した。 Magic Summariesのレジュメ作成に役立っているこれらの電報の公開は1994年、 日付のみで分類されており、同時にRed Machine等ほかの未整理書類も公開されている。この「東」という情報網については、日本のスパイ活動についての章一般で触れているほか、国際的な機密情報面での戦いの章でも取り上げている。これに関し、「東」の総統アンヘル・アルカサル・デ・ベラスコ等へのインタビューや日本側書類の調査を行った。

 

Incidente Laurel (ローレル事件) 

アメリカ合衆国とスペインの間で最も緊張が高まったのは194310月から11月。この時フランコは、新独立国家フィリピンの大統領ホセ・P・ローレルに対し電報を送り、それにより日本が設立した親日傀儡政府を認めることとなった。アメリカ合衆国はフランコに対して憤慨、これは各メディアに掲載された数多くの記事にみてとれる。政府の動きもこれに同調しており、スペインとの接触を絶ち、アメリカによるイベリア半島侵攻計画を流しさえした。その結果、スペイン政府は、ドイツへの協力活動を前面廃止するよう交渉を始めざるを得なくなり、戦時下のドイツにとって不可欠であった鉱物タングステンの供給を取りやめなければならなかった。ローレル事件は“スペインと第二次世界大戦“を扱うあらゆる文献に取り上げられており、また、この本でも触れられている:ジェームス・W・コルタバ著、”Spanish Relations, Wolfram and World War ”、1971年バルセロナ、マヌエル・パレハ、134頁。しかし「フランコと日本帝国」では新しい解釈が行われている。ローレル事件は合衆国政府による人為的作戦だった、と。これは、メッセージ解読によって、フィリピン政府へ同電報を送付するか否かをスペイン政府が迷っていたことがわかり、そのためこの考えに至った。ワシントン政府は、悪化状態にあったスペインと日本との関係に続き、スペイン・ドイツ間も同じように悪化することを目論んだのである。

 

スペイン政府のフィリピンへの野望 

国際的な新秩序体制で期待が高まる中、スペイン政府は日本が東アジアに覇権を得たのに従い、フィリピンでスペイン化が進められることを信じていた。ドイツの連勝に国は沸き返り、メディアには旧植民地へのスペインの返り咲きを取り沙汰するものまであった。この野望はしかし、すぐに真正面から現実と対立したが、この事実はアメリカ合衆国の記憶に残った。このスペイン帝国の野望については、「ファランヘ」と題された本に枢軸側との協力活動とともにまとめられており、よく知られている(「ファランヘ アメリカにおける枢軸側秘密部隊」ハバナ&ニューヨーク)。出版された1943年に少なくとも英語で4版を重ねている。著者は、フィリピンの事件を、スペインを介した枢軸側の最初の侵略事例としてとらえている。またこの本で、フィリピンにいたファランヘ党員を同国奪回の試みと関連付けるだけでなく、フィリピンで最も裕福な人物、アンドレス・ソリアノに非難を集中させている。ソリアノはビールのサン・ミゲル社所有者であり、同時にフィリピンの「スペイン党」の絶対的リーダーだった。当時ソリアノはマッカーサー将軍の力を借りて日本に対し戦っていた。この本でフィリピンについて論じられていることは、私の記事が出されるまでは顧みられていなかった(記事:フィリピンのファランヘたち 1936-1945、タガログ語と英語に訳される)。「フランコと日本帝国」ではさらにデータを加え、スペインの野望と、スペイン化政策の後退とフィリピンの民族主義への影響についての解釈を加えている。

 

・ブルーマリン/青の部隊 

世界大戦末期、フランコ体制の政治宣伝は日本を痛烈に批判した。アメリカ大陸にいる日本国民の権利や自由の保護活動を取りやめ、外交関係を破棄、末期に行われたマニラでの大量虐殺を理由に宣戦布告の可能性さえ持ち出した。この頃のフランコは連合国軍側との関係改善を絶対的に必要としており、日本帝国攻撃は、枢軸国側に加担していた過去を埋め合わせるための残り少ない手段のひとつだった。残された記録によると、青の部隊でことによっては大戦参加することを計画したとなっている。ただしこの時には青の部隊は多種の船舶で構成されていた。この記録は、第二次大戦中のスペイン中立性に関し、フランコ体制のとっていた姿勢への反論に、新しい要素を付け加えるものだ。スペインは1940年夏から秋にかけてドイツと参戦を考えただけではなく、よく知られているように、1945年春には連合国側への加担を計画したのである。

 

・日本国民の保護

日本国政府は、アメリカ大陸で日本との関係を破棄または日本に対し宣戦布告した国々にいる自国民の保護をスペインに依頼した。その目的は、友好関係維持と、スペイン外務省を通じて日本に情報が届けられることを要求するものだった。つまりスパイ活動である。しかし両国ともに間違いを犯したことに気付いた。スペイン側は、この使命を引き受けたことによりアメリカ内で各メディアのキャンペーンに叩かれ、一方日本側は、政治的利益は十分ではなかったことがすぐに判明した。というのは、このやっかいな人道的支援は多大な努力を要するだけではなく、道徳的威信がなければならないが、フランコ体制にはまさにそれが欠けていたのだ。それゆえ、日本人移民の共同体が店の襲撃や強奪にあい、公共物等を破壊され、人種差別を受けたときも、また合衆国内で特別収容地域へ移動を強いられたときでさえも、日本人のためにスペイン外交団のとった行動は非常に乏しいものだった。イタリア移民やドイツ人共同体に対しては行われなかったこの強制収容命令は、合衆国内の日本人移民の心に深い傷跡を残し、そして一方では収容所移住を強制された全員への賠償金支払い請求が発生した。この事件に関し数多くの記録文書が存在するが、スペイン外交についての記録は必ずアメリカの資料館から出ている。

 

・黄色の危機と国際関係 

イデオロギー、イメージ、ステレオタイプ、これらは変化し続けた日西関係の理解に欠かせないだろう。初めの数年間互いに非常に良いイメージがあったことは、その後のさまざまな決定や行動を理解するカギである。これらの決定事項や行動を具体的に挙げると、例えば、フィリピンのスペイン化に日本側の支援が期待できると信じたこと、日本に占領された中国のWang Jingweiの傀儡政権に対し、日本本国でさえも公式には認めていなかった時期に、最初の公式使節団を送りこんだことなどである。連合国側の勝利が決定的になり始めたとき、ほぼ完全に肯定的だった見方から否定的なそれへと日本のイメージは転換していき、古い日本観が表面化しはじめた。そしてこれによりスペインは旧友日本を敵に回すことを決めていったのである。こういった変化は根本的な文化の違いをもつほかの国家間でも発生している。

 

 

 

 

 
フィリピンにおけるスペインコミュニティー(1935-1939

その変化とアイデンティティに対するスペイン内戦とフィリピン独立準備開始の影響

 

成18年度提出 博士学位論文

東京大学大学院

総合文化研究科博士課程

地域文化研究専攻. 2006/12/7

 

 

 

研究は、193539年のフィリピンにおけるスペインコミュニティーの分析を行う。1575年に開始されたスペイン植民地化を機にフィリピン諸島に数世紀に亘り定住してきたスペインコミュニティーは、スペインの植民地時代の終焉を迎えた1898年、そして本研究の対象期間において、フィリピンの将来を決める事態に直面した。1935年11月にコモンウェルスが設置されると、1946年のフィリピン独立に向けての移行期間が始まった。同じ時期、1936年7月にスペイン内乱が勃発すると、スペインコミュニティーは新たな衝撃に苦しむことになった。本研究はスペイン内乱戦争が終結し、そしてフィリピン独立のための主要な法的準備が完了した1939年春までを研究対象とする。

 

  1898年アメリカ合衆国のフィリピン支配が始まった後も、スペインコミュニティーはフィリピン諸島で重要な役割を維持した。経済面では、スペインコミュニティーは植民地時代の終焉という変化に順応した。新しい入植移民たちの到来と商業面における特権の喪失に直面したスペイン系企業は、主要な活動対象をアメリカ市場に移した。第一次世界大戦中における対ドイツ植民地政策は、コミュニティーに大きな経済成長をもたらした。社会面では、コミュニティーとその付属施設団体であるCasino Españolは、フィリピーノコミュニティーの中で重 要な位置を占めていた。文化面においては、ヒスパニックアイデンティティーは活気を維持した。このことは、例えば、1930年代末にスペイン語の日刊新聞 が80,000部の発行部数を超えた事実に反映されている。当時フィリピンにおいてスペイン国籍を所持していた住民は5,000-7,000人にすぎな かったが、フィリピン社会に強く残存するスペイン文化は、アメリカ化に対抗しうる要素を含んでいた。

 

 

フィ リピンにおけるスペイン企業の重要性、フィリピン社会に広くかつ深く入り込んだスペインコミュニティー、そして当地におけるスペイン文化の存続は、スペイ ンコミュニティーの指導者達の影響力がコミュティー外にまで及んだという事実にもみられるように、コミュティーがフィリピンにおいて重要な政治的影響力を 持っていたことを説明している。

                                                                           

  しかし、この肯定的な状況は、本論文が研究している二つの出来事をきっかけに崩れ始めた。1935年11月、コモンウェルスの誕生は、スペイン社会の利益 にとって大きな脅威となった。なぜなら、コモンウェルスは議会審議の結果、スペインコミュニティーの生活を脅かす、外国人特に土地所有者に不利な法律を制 定したからである。1936年7月、イベリア半島でスペイン内乱戦争が勃発すると、フィリピンにおけるスペインコミュニティーは地理的距離にも関わらず、 大きな関心をよせた。スペインコミュニティーの中では、スペインマドリッド政府を支持した親共和国派と、反乱を支持する親フランコ派に分かれた。この分裂 は長い期間続くことになり、非常に深い傷跡を残した。初めの数ヶ月間で緊張感が高まり、わずか3年 という期間で修復不可能な憎悪と対立を生んだのである。フィリピン諸島においての、スペイン内乱戦争の特徴は、第一に、フィリピンの独立へのプロセスと重 なった事、第二に、他では南米の小さなコミュニティー社会だけに見られた親フランコ派の絶対的な優位、第三に、スペイン本国と同様に親フランコ派内でのイ デオロギーの多様性の三つであった。

 

   第一に、共和国派は当初から少数派であった。共和国派は、主に活力に欠けた老兵士達によって指導されていたが、雑誌“スペイン民主主義”を通して、フィ リピン社会に重要な影響を及ぼした。共和国派は、政治的には、共和主義左派に近いイデオロギーを持った穏健派であり、無政府主義者及び共産党員の存在はそ れほど目立つものではなかった。彼らの批判は、スペインでの反乱派を支持したフィリピン国籍であるがイベリア半島出身のメスティーソ、及びカトリック教会 に集中した。特に後者に対しては、過激な態度をとった。

 

  第 二に、親フランコ派は、スペインコミュニティー内で最も支援を受けた団体であった。親フランコ派の経済力は、金銭、物資、そして第一線に送られた兵士達と いう点で、共和国派よりずっと多い援助を可能にした。親フランコ派とフィリピン政府高官の親密な関係ゆえに、ワシントンが求める内政不干渉政策があったに も関わらず、フィリピン政府は、親フランコ派による本国援助はもとより、親フランコ派のプロパガンダ運動を禁じる手段さえもとらなかった。

 

  フィリピン諸島で最も重要であった事は、時間と共に親フランコ派内において、ファランヘ派と、保守派の間で緊張感が高まったことであろう。直接的な暴力衝突はなかったものの、論争は極端な結果にたどり着いた。すなわち、本国における勝利の際や記念日には別々に祝い、さらにそれぞれ異なる刊行物を発行した。これらは半島への募金収集活動へも影響した。対立は全く異なる考え方や気質の違いから起こった。すなわち、伝統的なイデオロギーを持った昔からの右派と、フランコを崇拝するファランヘ派である。他のヨーロッパ諸国のファシスト運動と同様に、ファランヘ派は、伝統的な寡頭政治の担い手すなわち保守派に挑んだ。多くのエネルギーをフィリピンのスペインコミュニティー対策に費やしたが、ファランヘ派は保守派からの抵抗を受けた。その結果として1937年後半からフィリピンの親フランコ派は、共和国派との争いよりもむしろ、派内論争に重点を置いた。これらは、スペインやラテンアメリカ地域において、1936年のクーデターを支持した人々の間で内部分裂が生じたことと同様であった。

 

  こ れらの出来事がコミュニティーの生活に与えた影響は、大きかった。経済面では、フィリピンの将来の独立へ向けての変化に対して、スペイン人はほとんど準備 を行なうことができなかった。そして、スペインの企業は、新しい法律によって、外国人による土地所有及び大多数の企業の維持が禁止されたことにより、大き なダメージを受けた。フィリピン諸島で政府の次に多数の従業員を抱え&#